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原爆の日に寄せて

2010/08/07(Sat)18:45

みぃ日記で書いたこと
それに対しての反応を完全な形でまるごと転載する。

※追記有り、追加

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断じて許すことはできぬ

菅首相「核兵器抑止力は引き続き必要」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1300989&media_id=88
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100806-OYT1T00489.htm

今回のこの報道は、怒りを通り越して悲しい。


今年の式典は今までとちがう雰囲気につつまれていた。アメリカなど核保有国の代表、国連事務総長が訪問、式典において哀悼の意を表明した年なのだ。



核保有国の代表、国連代表として彼らが発言したことの意義は大きい。核保有国の個別の情勢も確かにあるかもしれない。しかし、このことは広島がうざがられ ながらも長年叫び続けてきたことが漸く多少なりとも広島以外の世界において共有されつつあるという証ではないのか。そして、エノラゲイ機長息子の不快感の 表明は、彼を何も分かっていない間抜けな奴と評価するその視点が世界に少しずつ受け入れられつつある証であり、それでいて敢えてコメントを出さざるを得な い彼らの焦りが露わになった瞬間ではないのか。


確かに式典の形骸化はあるかもしれない。それはその通りでなぜなら当事者は高齢化するのが当然だからである。しかし、式典を祈りの場として維持し風化させ ずに残す意義はわかるだろう?理想を訴え、理想をぶちまける、そういった場が必要なのはいうまでもない。また、我々世代、我々の同級にも存在する二世三世 が常に健康不安をかかえつつ生きているなかで彼らの気持ちを我々が共有できる機会として必要なのではないのか?



三原則を投げすてろの石原、原爆の日に日本核武装論を高らかにぶちまけた田母神などはそういった視点から一笑に付すことができよう。平和平和と唱えていれば平和ぼけできるのなら苦労はしない。だが平和平和と叫び続ける者も必要。



二世三世が友人にいる生々しさ。行きつけの床屋の主人はガチの被爆者。また会社の上司にも二世がいて、毎年原爆慰霊祭への参加を欠かさない生々しさ。
彼らのなかで、彼らの側で、色々な広島の事情を思いながら生きるものとして、それを公の場で踏みにじる行為をどう受け止めるか、しかもよりによって日本国総理ともあろう人が。


建前だの現実だのそんな議論は用をなさない。いろんな事情と生々しさを抱えながら理想を公式に訴えるのがあの場ではないのか。余り評価の高くない秋葉市長も、荒木平岡と続くその精神の流れを受け継いでいるではないか。


私は、今回の総理の発言を断じてゆるすことはできない。



コメントを書く

ジョークル(超人) 2010年08月07日 09:05
ニュースより

確かに平和を尊ぶのは必要だし核兵器なんて無くなればいいですね

でも日米安保やアメリカの核抑止力がなければ日本は平和でやってこれたかどうか疑問ですよね

よく 2010年08月07日 09:14
> ジョークル(超人)さん

 コメントどうも


平和平和と唱えていれば平和ぼけできるのなら苦労はしません
だけど平和平和と唱えられる場も必要だとするならばこの日がその日なのではないでしょうか

強すぎる現実が理想を押しつぶそうとする中でバランスをとるために理想論も必要ではないかと思います

そりゃいまの体制で核の傘から離脱しようものならフルボッコですよ?ではその理想をおしだすためにはどうすればいいか、答えがでない問題ではありますが提起していかねばいけないでしょうよ

今回の発言を是とする人はその視点から考えると逆の意味で思考停止になっているのではないでしょうか

ジョークル(超人) 2010年08月07日 09:29
確かに理想は捨ててはならないと思いますし「管もたまには良いこと言う」みたいな日記書いてる人達も頭でっかちな人達だと思いますけど理想だけに傾倒してる人も…て感じです。

でも総理よりこんなスルーできないような質問投げかけた記者に一番問題あるんじゃないでしょうか?

むしろ今回のこの報道に対して肯定派、否定派、どっちの人にもあまり賛同できないと言うのが自分の感想です

理想と現実のバランスが大切な気がします
結局何が言いたいかよくわかんないですね。

いきなしコメント失礼しました

よく 2010年08月07日 10:37
> ジョークル(超人)さん

コメントどうも


むしろこういった受け答えがその資質を炙り出したとするならば、そのことにも意義があるのではないでしょうか


そのうえで、許すことができないという意見が私の意見ですね


原爆被害を当事者として背負っているひとが身近にいるというのも大きいと思いますけどね
この報道のあと彼ら彼女らの顔を思い浮かべると、悲しみが溢れ出てたまらないわけですよ


>理想論
理想論はひとつの目標論でもあります
そこにいつかたどりつけるとしてテーマがあればその道程はいろいろあるでしょうよ
でも現実論を追認すると選択肢が一気にせばまるでしょうよ

テーマそのものが目標未達という消極的選択により消えかねないでしょうよ


>態度
是非ともあなたのほうでも、自分はこう思ったということを自分のことばで考えてほしいと思います

花様。 2010年08月07日 11:50
俺はね、生を容易く忘れるから平和(ボケ)が嫌いなんだ。
生を日ごろから実感できたら鬱だ鬱だなんてこんなに大勢が言わないと思うんだよ。

ただね、核はいかんよ。
ありゃ子供の喧嘩にゴルゴが出てくるようなもんだ。
人並みの記憶力と想像力があれば平和記念資料館で十分だと思う。

あと、生物兵器もダメだ。
ロマンを感じるけど、倫理を超える。

どうすりゃいいのかね。

よく 2010年08月07日 18:21
>花井
おいらの立場は理想論でもなんでもないよ
去年も一昨年も同じようなことかいたとおもうけど
つまり
「平和平和と唱えていれば平和ぼけできるのなら苦労はしない。だが平和平和と叫び続ける者も必要。」
ぶっちゃけ話はこの部分が肝。

平和ボケを享受する/させる為には努力が必要よ
日頃の生活においてもそうだし
こういった国際問題とかに関してもそう

お兄さんやおいらが広島でなされた経験や教育は
おそらくそういった努力の一環なんだと思うわ
それが身になっているならば、平和ボケだなんだってんはあんまでんと思うんよ

式典が理想論をぶちかますのも意味があって
教育内容と式典での理想論 あと現実問題ね、それらを互いを相対的に比較しながら問題となっている現実を浮き彫りにするという意味で効果があると思う
だから平和ボケの結実だのお花畑だのという批判は的外れだと思うし、その目的・役割をそういう風に認識しとるんなら現実論をあの場で追認する/できるはずはないと思う
あれはそういう役割なんだから
本文にも書いてあるとおり 「建前とか現実とかは用をなさない」 でしょ?矛盾しとるからやめろいう話もあるが、矛盾なんか百も承知なんじゃけ、その批判ははっきり言ってナンセンス


むしろ相対化されたそれらを受けて個々人がどう思うかっていうなげかけ
現実論は現実論として認識せんといけんじゃろうし
平和ボケににげとるわけでもなんでもない とおいらは思うよ

その上で、さらにいうなら 直接被害者の意識のかけらを少しでも共有できれば、
その場としてふさわしいのがあの式典だとおもう。
おいらに関していうと身近にそういった当事者がいるってのも大きいかもね
行きつけの床屋のおっさんはその地域の昔の姿とか自分の被爆体験とか
よう話してくれよる 髪きってもらいながら
本人はよくある世間話のひとつなんじゃろうけどね
彼はその中で人の死を結構あっさりかたるわけよ
友達があんな風に逝った こんな風に逝った って

ほんまはこういったことに直にふれあっていくのが一番何じゃろうけど
その次の策をうてんまま今まできとる感はあるよね


>想像力について
書物をよみとく読解力とか
展示物をみて感じる想像力
そういったものがみんなにそなわってれば
いうたようなね「生を容易く忘れる」云々も起こりづらいと思うんじゃけどね

であればフィクションで十分
もしくはノンフィクションで十分
むしろ フィクションで十分な程度にまで持って行くのが理想
現実はそうではないけどね

つまりおいらは教育が不足しとんじゃないかなと思うわけさ

花様。 2010年08月07日 20:16
育ってのはどんな教育?

知らない人、曖昧に知ってる人、忘れた人、身近に語ってくれる人がいるから忘れない人、忘れられない人。
これらを統一して次の段階へ進めるための策を講ずるべきだってこと?

書いてあることは俺と同じ意見っぽいんだけど、とりあえず否定したいのか長文にしたいのか、論点が増えるばかりでよくわからん。

よく 2010年08月07日 21:44
>花井
すまんのお。いいたいことが多すぎてようまとまらんのよ

体験者が一番「生」に対して一番生々しかろうて、みききしよった人とふれあってる人も引継ぎは十分よ。だけど平和の状態ならいつか記憶から記録になっちゃうでしょう。
正直、記憶が記録に完全に取って代わられたときどうなるか、の対策が今は出来てないと思う。それだけの為に戦争はできんし。だったら追体験させる方の学力・読解力・想像力を上げていくしかないのだとおもう。

原爆の問題は被爆国国民としては全国的に「歴史教育」として様々な手法を使いつつ教え込むことが重要だと思う。教育される側はいうまでもなく、教師にも教材造りの過程で教育になるし。
基町高校では美術部が体験談を元に原爆絵画を描くという試みをしてるみたいよ。そういった活動も重要じゃろうね。
原爆教育については原爆資料館で十分だというけど、場所の制約上どうしても伝えることの出来る人数は限られとるのがいたしいよね。

花様。 2010年08月07日 23:46
まったくその通りだ。
こええよ。
なんかいろいろ書こうとしたけど、思い出すことの方が多すぎて書けんな。

最近の暑さじゃ10kmも走るとすぐに脱水症状出るんだわ。
水をがぶがぶ飲もうとしたときに思い出して、唇に水を塗ってみる。
これの比じゃないんだろうな、なんてごく一部の切り取りで安心してる。
水を求めての阿鼻叫喚。
体験者から話を聞いて広島に住んでた俺でこの程度だもん。
先に資料館で十分て書いたけど足りないね。
下にどう伝えていいかよくわからん。
生々しさがないの。知らないことが多すぎるんだわ。

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